ユニバーサル・デザイン―バリアフリーへの問いかけ

本来必要だったのは、特定の人のための特別なやりかたではなく、みんなのための普遍的なものだったのです。あとから取ってつけたような「従」の発想ではなく、「主」に対する本質的な問いかけだったのです。

つまり、いろいろな配慮は決して障害のある人のことだけを考えて作るのではなく、もっと幅広い人が自由に使えるように作られるべきだったのです。適切な支えを提供することができれば、高齢になって事情が若いときとずいぶん違ってきても、もっと長く元気でいられるし、たとえ誰かの助けが必要になったとしても、社会への関わりを保ち続けることができるのです。

求められているのは、特別扱いではない方法でバリアをなくし、みんなが自由に使える環境を作ることです。これがユニバーサルの考え方の原点であり、それの実現がユニバーサル・デザインと呼ばれるものなのです。

エコロジーとテクノロジー (同時代ライブラリー)

自然界における生物の共存と安定の条件

  1. 生物の固体数は環境変動が閾値内であれば、変動しつつもほぼ一定の数に保たれる。
  2. 野性生物の活動力は自然環境では意外と低く抑えられている。
  3. すべての生物は何らかの形で資源の循環再生にかかわっている。
  4. 生物はさまざまな環境で生きぬくために生活様式を多様化している。
  5. 未利用資源のストックを豊富に持っている。
  6. 個体としてだけでなく集団としても適応的な構造と機能をもっている。

土木計画学―公共選択の社会科学

人間の判断を介在せずに、何らかの数理的な「技術」のみによって得られる解のみに基づいて真に合理的な土木事業を推進しようとするなら、将来を完全に見通すことが不可欠である一方、そのような完全な将来予測などは不可能であり、それ故に、技術論にのみ頼るプランニングでもってして将来において合理的に機能し得るプランを策定することもまた不可能である。言うまでもなく、社会や自然の将来は、移ろいやすい一人一人の気分や、いつ生ずるとも分からない天変地異の可能性に常に影響を受けるのであり、それらを逐一予測することができる者などこの世に存在し得るはずはない。それ故、適切なプランを立案しようとするなら、“技術”の限界を適切に把握した上で、技術によって導き出された最適解を解釈し、参考にしつつ総合的に判断していく態度が不可欠となるのである。もし、特定の土木技術者がプラン策定における特定の判断を下すことが求められる立場にいるのなら、数値に基づく合理的計算を行いつつも、様々な社会的な要素や自然界における様々な不確実性を加味しつつ、総合的に判断することが不可欠なのである。同様に、特定の組織や社会そのものが特定の判断を下すことが求められている場合においても、そうした総合的な判断を組織的、社会的に下していくことが不可欠なのである。いずれにしても、このような総合的判断を適切に下すことができる能力こそが土木技術者における「真の技術力」と呼ぶべきものなのであり、単なる数値演算を正確に為す能力は、土木技術者における技術力の一要素にしか過ぎない。おそらくは、この点を失念した者は、決して一流の土木技術者とはなり得ないであろう。

公務員の改革力―住民が満足する77の法則―

人の感情はそう簡単に動かされるものではありません。感情が動くのは、日ごろの仕事の姿勢がよく(努力している、責任感が強い、真剣に何ごとにも取り組む、質や効率にも力を注ぐなど)、そして、人間力、つまり、人間としてのすばらしさ(信頼できる、自発的に協力する、倫理を重んじる、誠実であるなど)ももち合わせていればこそ、低姿勢になることも、現状を訴えることも、また説得してもうまくいくのです。

したがって、これらの下地がないと、”力”を借りられる可能性はないか、あっても小さいのです。それは”力”を貸す立場になればわかることです。

“力”を借りたい時だけうまいことを言ってもダメだ、ということです。では、何が求められるかというと、「人間力」であり、「○○さんなら”力”になりたい」と思われる人間になることです。

新・都市論TOKYO

リスク管理の行き届いた街は、きれいで華やかで安全だ。そのすべてを否定するものではない。ただ、21世紀のブランドニューな街を歩きつづける中で浮かび上がった、ある決定的な違和感はぬぐえない。きれいで華やかで安全で、さらに効率的であることは、それだけで都市の魅力につながるものではない、ということだ。

歴史をみれば分かる通り、都市とは、先端のテクノロジーに、名もなき人々が生活を紡ぐ時間が重ね合わさった時に、長き寿命を得ることになる。リスク管理最優先の再開発が続く東京は、実はもっとも有効なリスク管理を根本のところで見逃しているのではないか。

もっとも有効なリスク管理。それは、歴史の継続性とクリエイティビティにほかならない。

地域再生の経済学―豊かさを問い直す

人間が人間としての能力を高めるには、人間が生物的存在としても健康でなければならない。しかし、人間が生物的存在として健康であるためには、自然環境が保全されていなければならない。そのため自然環境の保全も、共同作業による生産の前提条件となってきたのである。

もちろん、人間の絆によって人間を育成し、人間の健康の向上を図るために自然環境を保全しようとすれば、地域社会において営むしかない。というのも、そうした人間の絆の形成には継続的な人間的接触を必要とするからである。

もっとも、日本のように情報手段が高度化する知識社会では、人間の絆が弱くなると考えられている。情報が動き回るようになると人間が激しく動くようになると想定されているからである。しかし、こうした認識は妥当とはいえない。事実は逆で、情報が動けば、人間は動かなくてすむようになる。というよりも、人間が移動しなくてもよいように、情報を動かすのである。それゆえに、知識社会は自然環境にフレンドリーになる。人間が動き回れば、自然環境を破壊せざるをえないからである。

情報を動かせば、人間は移動不要になる。遠くまで自動車を動かして買い物に行くこともなく、インターネットで注文して、ユニバーサルサービスの郵便で配達してもらえばよい。人間の移動性が低くなると、継続的な人間的接触は増加して、人間の絆は強まることになる。

知識社会の社会的インフラストラクチュアは、地域の自発的協力を基盤に、自己決定権を把握した地方自治体が供給する人的投資と自然環境ということになる。しかもそれは同時に社会セーフティ・ネットにもなる。

公務員の教科書 国語編

対話、そして考える力や表す力の源は何か。それは感情である。感性の爆発が会話を促し、思考をもたらす。想像力や論理力は感情の整理と体系化にみがきをかけ、感情の整理と体系化は想像力や論理力をより一層精密にするのである。感性で発想し、論理で組み立てる。それが知恵のある人間と動物の違うところである。

デジタル主流の電子社会はその感性が当面超微量で進んでしまう社会である。感性が微量であることは、喜怒哀楽も微量であり、人と人が溢れるような親密感で関係を結ばない。必然コミュニケーション力や発展力は衰える。

感性量の乏しい、感情の届けられないコミュニケーションと生活パターンの社会が続く限り、考える力はよみがえらない。考え、表す手段として判明された電子ネットワークが、逆に人から考える力を奪い取っているのが現状だ。このパラドクスを克服することが、教育の主題であり、電子社会の問題点である。

その中心課題は、繰り返すが感性の回復である。電子画面の前にいる時間を減らし、人と人が直接接触し、コミュニケートする場と本格的に文書表現を習う時間を増やす方策が必要である。

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伊藤 章雄
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農村の幸せ、都会の幸せ―家族・食・暮らし

日本全体が農業、農村の持っていた価値というか、2000年の私たちの暮らし方に潜むエネルギーのあり方を深く学び直して、新しい行動原理と暮らしの目標を建て直さなければならないと思います。

だからと言って、昔の農業、農村社会に戻れと言っているのではありません。共同体をロマンチックに賛美することでもありません。

具体的には、経済的価値と個人主義的な自由を一方的に賛美してきた20世紀後半の日本の異常性に気づき、自分たちの親のこと、故郷のこと、そして、農業や自然との付き合い方を、もう一度考え直して行動を起こしてください。人間は自由ではないし、一人では生きていけません。

風景からの町づくり

町並みをつくり上げているすべての要素を都市計画の立案者やデザイナーの自力に委ねることはとても無理です。ごく一部ならともかく、町すべての建築や道や川に、自力の解脱を期待するわけにはいきません。市民が、朝起きて景色に包まれながら出かけて、夕方また帰ってくる。そういう日常生活の中で、普段は忘れている町の美しさにハッと気がつく。自分はこの町で生き、この町で従容として死んでいくのだ。そのように思わせるのは、民芸に見られるような平穏無事の美なのではないでしょうか。今まで、都市や国家を論ずるわたしたちの精神の射程は、経済云々、ありいはせいぜい生きがい云々にとどまっていて、一度も「死」にまで至ったことがあったでしょうか。民芸の理想にはそれがあるように思います。

建築や橋や道路など、いずれも強い目的意識にもとづいて設計される風景の構造物に対してそれを適用するのがむずかしいことは確かですが、多忙と打算で身動きができない現代文明を映す鏡として、あるいはその解毒剤として、一つの大事なヒントがここにあると思えてなりません。

目的意識(自力)がゆうせんするげんだいぶんめいのなかで、草木に覆われた大地の泰然とした姿や、過ぎ去った時間の中で透けて見える風景という理想を求めるならば、過去の記憶や山水の趣にしたがうというような、他力を期待する構えもまたときには有効ではないでしょうか。それがもつ底力を信じて、そこから精気をくみあげる方法にほかなりません。

日本の風景・西欧の景観―そして造景の時代

野生の自然の風景や農村風景とまったく同様に、都市風景もわれわれをとりまく客観的な環境との関連においてのみ存在するのではなく、われわれが環境に対して持っている主観的な表像との関わりにおいても存在する。したがってわれわれが都市風景を観賞するときも、また当然都市計画者が開発を行うときも、都市や都市性というものについて多少なりとも抽象的な観念に特に影響を受けることになる。一方こうした観念自体もわれわれの知覚する風景に影響される。

このように複雑にもつれあった関係は、なかば現実的で、かつ観念的、なかば生態学的で、かつ象徴的という性格をもっているが、少数のモチーフとして明確な形をとることになる。これらのモチーフは時代によって変化するが、ある時代の都市計画の思想や都市に関する世論を協力に規定している。たとえば近年の日本では、緑や水辺というモチーフがそれにあたる。