イマココ――渡り鳥からグーグル・アースまで、空間認知の科学

私たちの頭は、空間を把握する不可思議ですばらしい能力を持っている。野や森に住む鳥やハチなどとちがい、人間には空間をつくりあげ、自分たちのニーズに合わせて歪曲し、幾何学的な説明とは別のものとして思い描くことができる。このような空間を考える能力があったからこそ、人間は地球で唯一、本当の自意識を持つ存在として優位な地位に押し上げられたという説は、おそらく正しいのだろう。高度に発達した視覚で複雑な光景を取り込み、位相的なつながりに基づいてそれらを混ぜて不可思議なものをつくることで、私たちは大昔の人間の想像をはるかに超えた空間をつくりだし、組み立てることができるのだ。

しかし私たちが空間の幾何学という衣を脱ぎ捨てることができたのは、人間の頭のつくりだけではない。私たちがエネルギーやテクノロジーを活用する能力は急激に高まり、いまや周囲の物理的環境をほぼ好きなようにつくりあげることができる。道具を使う動物である私たち人間は、独特な空間のとらえかたをする脳を駆使して、物理的空間を超えようとする志向を支え拡大する環境を整えてきた。都市計画から光速コミュニケーション技術まで、あらゆるものが物理的空間を超える私たちの能力を反映し、それを支え、伸ばすように設計されているのだ。

ロングテール(アップデート版)―「売れない商品」を宝の山に変える新戦略

ロングテール時代の6つのテーマ

  1. 現実にすべての市場において、ニッチ商品はヒット商品よりはるかに多い。生産手段が安くなり一般に普及するにつれ、その比率は急速に高まる。
  2. ニッチ商品を入手するコストが劇的に下がってきた。デジタル流通、優れた検索技術、ブロードバンドのじゅうぶんな普及といった要素の後押しで、インターネット市場は小売の経済性を根本から変えつつある。おかげで市場で、提供できる商品の種類は大きく広がった。
  3. 多様な選択肢を提供しても、それだけで需要は増えない。消費者がそれぞれの必要性や興味に合わせてニッチ商品を見つけられるような方法を提供しなくてはならない。そのために有効なさまざまな手段や技術―レコメンデーションや人気ランキング―がある。こうした「フィルタ」は需要をテールへ導くことができる。
  4. 選択肢が非常に多様で、なおかつそれを整理するフィルタがあれば、需要曲線はなだらかになる。ヒットもニッチもどちらもまだ存在するが、ヒットは以前より人気度が低く、ニッチは高くなる。
  5. ニッチ商品が次々に足されて、大きな市場になる。たとえ飛ぶように売れなくとも、ニッチ商品の数はたくさんある。それらをすべて合わせればヒット商品市場と張り合える。
  6. 以上の要素が揃えば、流通のボトルネック、情報不足、商品スペースの限界に影響を受けない自然な需要の姿があらわれる。それはこれまで当然と思われてきたヒット主導型の形をしてはいない。むしろ人のありさまと変わらぬほど多様である。

予想どおりに不合理

わたしたちの行動に影響をおよぼす力(感情、相対性、社会規範など)は行動に多大な影響をおよぼしているのに、わたしたちは自然にその影響力をとんでもなく過小評価したり、まったく無視したりしてしまう。わたしたちが影響されてしまうのは、知識がないからでも、訓練が足りないからでも、意思が弱いからでもない。熟練者でも初心者と同じように、規則正しい予測できる形で何度も繰り返し影響を受ける。その結果である失敗が、そのままわたしたちの生き方、ものごとのやり方になる。失敗もわたしたちの一部なのだ。

わたしたちは、目の錯覚に引っかかるのをどうすることもできないように、心が見せる「決断の錯覚」にころりとだまされてしまう。問題は、視覚や決断の周囲にある状況が、目や耳や、嗅覚、触覚、さらにはその大元締めである脳によってフィルターにかけられていることだ。わたしたちが情報を把握して消化するところには、その情報はわたしたちが生みだした現実の表裏であり、わたしたちはこの入力を決断の基準としている。要するに、わたしたちには自然から与えられた道具しかないため、自然にくだす決断はその道具の性能や精度に制限を受けるのだ。

もうひとつの重要な教訓は、たとえば不合理があたりまえのことであっても、だからどうしようもないというわけではない、ということだ。いつどこでまちがった決断をするおそれがあるかを理解しておけば、もっと慎重になって、決断を見なおすように努力することもできるし、科学技術を使ってこの生まれながらの弱点を克服することもできる。

公共事業が日本を救う

現代文明社会の中では、「人」は「コンクリート」の中で、「コンクリート」に守られつつ暮らしている。

この現実を忘れて、地震防災などできるはずもない。「コンクリート」を適切に強化することを通じて、初めて我々は、弱々しい存在ながらも、巨大地震という自然の猛威に対して立ち向かう術を得ることができるのである。

事実、我々はその危機に立ち向かうための「技術」を持っている。阪神大震災以降、耐震のための土木技術、建築技術は大きく進歩している。そして、我が国は経済不況の現時点においてもまだ、他国には真似のできないほど大きな「財政力」を持っている。

今足りないのは、そうした「技術」や「財政力」をもってして、強力に耐震強化を図ろうとする「政治判断」だけなのである。

「つながり」を突き止めろ 入門!ネットワーク・サイエンス

人間を理解するためには、その人の持つ関係を理解することが重要だ。組織や社会を理解するためには、そのなかで人がどうつながっているかを知る必要がある。だが、関係は目に見えないのでわからないことが多い。あえて蓋を開けず曖昧なままにしているのが生きる知恵でもある。だからこそこれを支配し、制御する者は、人々を、組織を、社会を制御する可能性を持つ。

関係の探索・分析ツールも増えつつある。あなたの関係情報は、機械的に収集されているかもしれない。関係への支配欲を持つ一部の人々が、あなたの生活を脅かす可能性だってないわけではない。インターネットやWikipedia、mixiをはじめとするSNSでは日々、関係情報が追加され、情報と情報、人と人との連携が構築され、爆発的に拡大している。このような時代に生まれたわれわれは、このネットワーク社会を、どのように生き抜いていけばよいだろう。

モチベーション3.0 持続する「やる気!」をいかに引き出すか

モチベーションの話しとなると、科学の知識とビジネスの現場にはギャップがある。ビジネスにおける現在の基本ソフト(OS)は、外部から与えられるアメとムチ式の動機づけを中心に構築されている。これはうまくいかないし、有害な場合も多い。アップグレードが必要なんだ。科学者たちの研究成果がその方法を示している。この新しいアプローチには三つの重要な要素がある。一つは—自分の人生を自ら導きたいという要求のこと。二番目は—自分にとって意味のあることを上達させたいという衝動のこと。三番目は—自分より大きいこと、自分の利益を超えたことのために活動したい、という切なる思いのことだ。

人間は単に、目の前のニンジンを追いかけて走るだけの馬とは違うと私たちは知っている。子どもたちと一緒に時間を過ごしたり、自分が最高に輝いている姿を思い起こせば、受身で命令に従うだけの従順な姿勢が人間の本来の姿でないとわかる。人間は本来、活発に積極的に活動するようにできている。人生でもっとも豊かな体験は、他人からの承認を声高に求めているときではない。自分の内なる声に耳を傾けて、意義あることに取り組んでいるとき、それに没頭(フロー)しているとき、大きな目的のためその活動に従事しているときだ、と私たちは知っている。

つまるところ、この不一致を解消し、モチベーションについての理解を二十一世紀に持ち込むことは、ビジネスにとって重要となるだけではない。人間性の肯定でもあるのだ。

文書術―読みこなし、書きこなす

日常生活の中では、誰もが考えています。考えていない人など、一人もいないはずです。生きている以上、私たちは考えることなしに、一日たりとも過ごすことはできません。それなのになぜ、また、ことさらに本書では「考える」ことの学習を強調するのでしょう。

その一つの答えは、書くことがテーマになっているからです。今、書くことと考えることの関係を考えてみると、書くことなしに頭だけで考えることは可能ですが、考えることなしに書くことはたった一行であってもできません。また、考えたことはそのプロセスなり、結論なりを書くことで初めて客観化され、他者にもわかるものとなります。

書くことという現実の行為は、考えるということが現実に働きかけることであるという本質をたえず想起させてくれる点でも貴重なのです。

バルセロナ―地中海都市の歴史と文化

『都市化の一般理論』(1867)の表紙には、「都市を田舎化し、田舎を都市化せよ」と書かれている。セルダは、拡張計画で、都市的な田園、つまり、都市のにぎわいと田園ののどかさを併せ持つまちを実現しようとした。どこの部屋にも陽射しが降り注ぎ、自然の風が吹き抜けるように、建物の高さは街路の幅20mより低く、四階建て16mに抑えられた。また、一街区四辺のうち二辺のみに沿って建物を建てられることとし、建物の奥行きは14m以下に規制されていた。街区の建物以外の場所はオープンな緑地として残されるように計画されていた。そうすれば、子どもは自ら住まう街区内の屋外で走り回り、お年寄りも街路を渡って出かけていかずに緑の中を散策できる楽園が実現する。

しかし、現在バルセロナの中心をなす格子状市街地を訪れると、緑豊かな田園都市のかけらもない。七階建ての建物が街区の四辺をがっちり固めている。セルダ拡張計画決定直後からすさまじい投機圧力に耐えきれず、規制緩和をし続けた結果である。

今日の拡張市街地は、セルダの綿密に計画したかたちとは大きくかけ離れている。とはいえ、この拡張地区が現在もなお、150年の歳月を越えてバルセロナの一等地として立派に機能しつづけている事実は、セルダ都市計画がどれほど先見性を備えていたものであったかを示すなによりもの証ではないだろうか。

現状、格子状に張り巡らされた街路は、一本おきに一方通行で、大量の車を整然とさばいている。セルダは、スペイン初の蒸気機関車が走るのを見て、「機械を動力とする個別輸送手段」が席巻する都市を見通していた。彼は上流階級が馬車に揺られて移動していた時代に、はやくもマイカーの行き交う都市を予測していたのだ。街区を隅切りして交差点を八角形としているが、これはまだ見ぬ自動車が交差点をスムーズに曲がれるようにするためであった。セルダは、本来の専門である道路設計の技術者としても、卓越した先見性を持っていたのである。

森林理想郷を求めて―美しく小さなまちへ

現代の先進国郡にみられる巨大都市文明の姿は一見、便利で快適であるが、安定した遷移系列のクライマックスに向けて遷移を続けている姿だといえるだろうか。森林の減少、砂漠化の進行など世界は終末のステージに向かって刻々と変化しており、また、地球的レベルでの個体数(人口)の激増は、とどまるところを知らない。しかも一元化されつつある人類の生活様式は、地球的規模での環境悪化を進めている。いま、私たちが向かい進んでいく目的地は、到底、森林化社会と呼べる世界ではあるまい。ほど遠い。

悲しいことではあるが、私たちは、全体の不利益につながることはわかっていつつも、目先の自分たちだけの利益につながることだけ、つまり利益にためだけに行動しようとしている。このような社会遷移の最前線が巨大都市だろう。生物全体社会の遷移の行く末は、果たしてこのままでいいのだろうか。このまま推移すれば、巨大都市文明は予定調和することなく、必ずや予定破局に向かうことになるのではないか。まさしく、がネット・ハーディンのいう「共有地の悲劇」だ。

十字軍物語〈1〉

西暦1099年6月7日、十字軍はついに、イェルサレムを遠望する地に到達した。

諸侯たちが馬から下り、甲冑のたてる金属音の中で、まるで教会の中でも入ったかのように、うやうやしく片ひざをつき、兜を脱いだ。

騎士たちも馬を降り、それにつづく。

兵士たちに至っては思わず両ひざをついてしまい、両手をあげて泣き出す者までいた。

誰もが感動に震え、感涙にむせんでいた。生まれたときからくり返し聴かされてきた聖都イェルサレムが、今や彼らの目の前にある。おりからの夕陽を浴びて、静かにそこにあるのだった。ついに来たのだ、という想いが全員の胸を満たし、それがあふれてくるのを甘美な想いで受けとめていたにちがいない。

第一次十字軍の戦士たちは、この瞬間、謙虚な巡礼者になりきっていたのである。

この想いの前では、諸侯と兵士の差はなくなっていた。免罪に釣られて十字軍に参加していた人殺しや盗賊と、初めから神に一生を捧げると誓約した聖職者のちがいもなくなっていた。

イェルサレムは、この種の想いを人々に感じさせる都市なのである。だが、キリスト教、ユダヤ教、イスラム教の別なく、同じたぐいの思いを抱かせてしまうところが、一神教間で摩擦を生む原因であるのだった。