新しい自然学―非線形科学の可能性

生活の快適性への欲望を直接間接の動因として、人間は自然の部分部分に関する知識を頼りにして自然に働きかけてきたのであるが、生態系の破壊や大気汚染に見るように、それがときに巨大な損失となって人間に跳ね返ってくるという構図は、今や誰の目にも明らかになっている。これは知識と価値との分裂から来るというよりも、知のいびつさから来るものと思われる。その場合いびつさとは、部分知に比しての全体知の貧困という見方も成り立つかもしれないが、むしろ個物の相互関連の中に同一不変構造を求めるような知、すなわち述語的世界の記述における知の発達が遅れているということも重要なのではないかと思う。このようないびつさをもつ知にもとづいて、自然ヘ無思慮に働きかければ、取得される価値ははっきりと目に見えるのに、失われる価値についてはきわめて見えにくいという、先に述べた状況も理解できる。どれだけのものが失われるかに関して、前もって知識をもっていれば人は決して無謀なことはしない。問題は価値の不在ではなく、知の不在だと考えたい。

科学技術・地球システム・人間

生態系の論理は決してすべてが調和に向かっているという予定調和を示すものではない。多くの種の間に一定の均衡が成立するとしても、それはそれらの間のいろいろな形での相互作用の結果、たまたまそうなるだけであって、そのような均衡解において占めるべき位置を持たない種は滅びてしまうのである。従って残った種の間に調和が成立しているように見えても、それは結果としてそうなっただけであって、調和を目標としてシステムが変化してきたわけではない。またそのような均衡が生物の種の豊かさと多様性を反映するというのは正しくない。もしある範囲において物理化学的条件が一定に保たれ、外界からの強い影響がなければ、その中での生物の種の間の生存競争の結果は、結局その条件に最もよく適合した少数の種が生き残って、他の多くの種は滅んでしまう可能性が高いのである。

しかし地球上の多くの部分における生態系はむしろ安定的な均衡状態にあることは少ないように思われる。それは気候その他の外的条件が絶えず変化するからであるが、また生態系そのものが均衡解を持たないこともあり得るし、また均衡解を持つとしてもそれが安定的でない、つまり均衡に達することがあってもすぐまた離れてしまうようなものである場合も多いように思われる。いい換えれば生態系は数学的な意味でのカオスであることも考えられる。

環境学入門〈9〉環境社会学

近年の環境問題は、生活排水による水汚染問題のように、ふつうに生活することで、結果として環境汚染を招いてしまうからである。地球温暖化問題も、私たちが、日常生活をふつうに送る、その結果起きていることである。つまり社会的犯罪ではない。このように考えると現代のライフスタイルや産業社会全体が環境葛藤系に位置づけられ、共生系は理想となりつつあることが理解されるであろう。

これまで環境葛藤系と環境共生系の研究は、かならずしも相互のかかわりを意識してなされることは少なかった。とはいえ、望ましい状況を新たに創造するためには、両者に共通する方法が必要である。両者に共通の方法論として、私たちの生活をなりたたせている「モノ、コト、ココロ」という関係性のレベルと、物質的、社会的、心理的距離という「生活世界からの主観的認識」のレベルとを戦術的に採用したのである。

森との共生―持続可能な社会のために

10年先のことよりも明日の生活しか考えられない貧困社会においては、森林を保全し、保護していくことは極めて難しい。貧困からの解放こそ森林の破壊を食い止め、失われた森林を回復させる基本条件である。持続的発展という言葉が最近、国際的によく使われているが、これは地球環境保全のためには、貧しい国や地域の適切な経済発展と生活レベルの向上が必要だという意味を含んだものである。発展途上国の人達は皆、先進国のような経済発展を望んでいる。だが我々先進国がこれまで歩んできたような発展の仕方を続ければ、地球環境は急速に崩壊するだろう。どのような持続的発展を求めていけばよいのかを、先進国、発展途上国の両者が一体となって考えていかなければならない。世界の森林の保全と地球環境にとって、これが最も根底的な問題である。

地球持続の技術

ビジョン2050は、①エネルギー効率の向上、②人工物の飽和と循環、③自然エネルギーの開発の3点を基本原理としながら、それらを具体化したものである。このビジョンは、地球上のすべての人々が現在の先進国に匹敵する生活レベルを達成し、同時に環境と資源の問題を解決することを前提としている。効率のよい循環型社会が実現できるなら、それはけっして夢物語ではない。なぜなら、本書でくわしく見るように、エネルギー効率の大幅な向上も、自然エネルギーの大規模な開発も可能であるし、また20世紀が負の遺産ばかりを残したわけではないからである。建物や鉄道や高速道路や家電製品など、身の周りにあるさまざまな人工物は、場合によっては、「正の遺産」と考えることができる。こうした基本的な人工物が地球上のほとんどの人々にいきわたる「人工物の飽和」という状態が21世紀半ばにも訪れるであろう。そのときに、効率よく廃棄物を再生してリサイクルさせることによって、天然資源からの人工物の生産をゼロに近づけることが理論的にも技術的にも可能であることを明らかにしたい。

もし、ビジョン2050を実現することができるならば、石油の枯渇、地球の温暖化、廃棄物の大量発生という三重苦から逃れることができるし、人類は持続的発展のための物質的基盤を得ることができるだろう。

小宮山 宏
岩波書店

¥ 777

(1999-12)

まちづくりと景観

都市は生き物だから、現状を固定し冷凍保存しておくことは不可能だ。もし完全に固定してしまえば、それは死んだ都市であり、博物館か遺跡に過ぎない。生きた生活があるのが都市だ。そうなると古い物が更新され、新しい物が入ることは必然である。あらゆる生物は、新陳代謝によって、変化しながら本質を保つ。外形的に大きな変化があっても、新陳代謝は都市にとっても必然的なことである。

ところが、変化の過程で不適合な不良物が加わると、結果は変わってくる。不良物がそのまま推積すれば、都市は醜く混乱の様相を呈するし、全く異なる存在に変質してしまうかもしれない。都市の遺伝子は、変化を繰り返しながらも、その都市の個性を維持しているべきだが、遺伝子自体が破壊されてしまえば、同じ都市が継続しているとは言えない。

都市は常に変動し、新しい建築物や構造物が建設され、更新されることは必然的である。だが、都市の個性を保ち、周囲の環境との調和を保ちながら継続させることが必要だ。更新とは、時間的連続性のなかで、都市の遺伝子を継承していくものだ。新しい物も、大きな歴史の流れの中にあることを忘れてはならない。そうでなければ、新しい物はただの闖入物として、都市を内部から破壊する癌細胞になる。現在行われている状況はそれに近い。たとえ単体としては優れたものでも、設置させる都市にとって、空間的・時間的になじまないならば、都市景観を醜くさせる不良物になる。

地域再生の条件

地域の人々が意識的に意欲を持って地域再生に取り組むとしたら、おそらくそれらの人々の政治意識もまた変わってくるはずです。人々の政治意識が変わるとすれば政治そのものも変わらざるをえなくなる。政治が変われば、戦後ずっと変わらず進められてきた国土計画や地域政策も変更せざるをえなくなります。迂遠ではありますが、それが今日のわが国における地域格差を解消するもっとも有効な手立てであるかもしれません。

本間 義人
岩波書店

¥ 777

(2007-01)

都市と水

われわれの生活習慣は、その土地の自然特性に根ざしている。それは都市においてさえ通ずる論理であった。しかし、都市から自然が徐々に失われ、人工的自然で我慢せざるを得なくなってくると、さらには農村でさえ人工的自然が増してくると、どこへ行っても共通に近い生活パターンとなり、地域特有の生活習慣さえ失われて行く。生活の便を求めて都市に集まり、あるいは都市的生活を享受できるようになったが、季節変化に基づく生活、風習の地域特性は急激に失われてきた。一時は近代都市的生活が文化であるかのような錯覚にほとんどの国民が陥ったものである。

しかし、文化とは個性の尊重から始まるものであろう。水の文化を標榜するからには、それぞれの地域の水、河川、運河、水路、池や沼の特性と、それに根ざした生活習慣を尊重することである。無理に成形手術して、近代的(?)にすることは無い。もともと泥の多い沼はそのままがよい。

開発によって変形する必要のある場合も、それによる水循環の変化に対応する手段を、可能な限り、その地域の水の特性を踏まえて用意するようにしたい。環境保全の流行は結構だが、どこでも澄んだきれいな川や沼にすればよいのではない。ましてや、アメニティと称して余りに人工的な水辺設計をされては、自然は迷惑であろう。

高橋 裕
岩波書店

¥ 777

(2004-02-20)

天と地と人の間で―生態学から広がる世界

テクノロジーによって克服できたかのように思われていた自然が、とても手強い、制御しがたいものとして私たちの前に立ち現れ、社会全体の再編成と新たな科学技術の再構築を迫っているともいえる。あらゆる英知を集め、また、科学の総力をあげて未来に対する不安を解消するための体制をつくることが、21世紀を前に最も必要とされていることなのではないだろうか。

いろいろなレベルで絡み合う複雑な環境の問題は、それぞれの専門分野の中だけで問題をとらえ、詳細に分析し、対策を立てるだけでは解決がむずかしい。例えば、農業生産を高めるために導入した外来生物がもたらす生態系ヘの影響のように、目先の個別の問題の解決のためにたてる対策が他のさらに深刻な問題をもたらしてしまうこともある。科学は、ますます細分化され専門化が進んでいるが、環境の問題を解決するには、それとずいぶん異なる方向性と知性が必要なように思われる。

素粒子から宇宙まで、遺伝子から地球まで、さまざまなスケールや階層においてすぐれた業績をあげてきた優れた洞察力をもつ科学者たちが、専門に拘泥せずに、多少の時間を難問解決のための思考に費やすというのはどうだろうか。

いま必要とされているのは、多様な専門家や非専門家の幅広い協働に加えて、広い視野から総合的に問題をとらえ鋭い洞察を加えるための傑出した「頭脳」や、科学的な思考のトレーニングを積んだ意思決定者なのではないかと思うからだ。

自然再生―持続可能な生態系のために

ヒトが組織的に他の集団のメンバーを殺すようになったのも、やはり集団による狩りが行われ、殺戮という行為に慣れてからだろう。一般に哺乳類では、同種の成獣を殺すような行動はごく稀にしか見られず、雌をめぐる競争のなかで、偶然に起こるにすぎないと考えられている。意識的に同種の他の個体を殺すヒトは、非常に特殊な動物であるが、積極的な攻撃性という性質を身につけたことに加え、言語によるコミュニケーションによって組織化された集団行動が可能となったためだろう。さらに武器という「殺すための道具」の発達がそれを容易にする。

こうして征服型の対環境戦略を特徴づける攻撃性と、他の動物には見られない高度なコミュニケーション能力は、自然環境に大きな改変をもたらすいっぼうで、殺戮にもとづく征服という人類特有の集団的行為を可能にした。環境破壊と戦争は、その起源においても、持続可能性を損なうというその帰結においても共通性が大きい。